第17回優秀論文賞選考理由
優秀論文賞選考委員会 川島真
アジア政経学会第17回優秀論文賞選考委員会は、第65巻に掲載された論文のうち選考対象となる10本の論文から以下の二論文を優秀論文として選んだ。
- 李素軒会員「資本自由化以降の韓国における二つの外貨流動性危機の比較分析」
(『アジア研究』65巻1号、2019年1月、p.1-20)
- 今村祥子会員「統治と謀略―インドネシア・スハルト体制における「謎の銃殺」事件」
(『アジア研究』65巻3号、2019年7月、p.20-36)
二論文の受賞となるのは第1回以来だが、今回選考委員会は次のような理由で、最終選考に残った二論文は甲乙つけ難いと判断した。第一に、対象とする地域、またディシプリンが異なり、両者の直接的な比較が困難であること。第二に、この二論文それぞれが日本におけるアジア研究の推奨すべきあり方、そして将来の方向性を示していると考えられることである。
以下、それぞれの選考理由を記す。
1.李素軒会員「資本自由化以降の韓国における二つの外貨流動性危機の比較分析」 本論文は、近年の韓国経済が体験した二つの外貨流動性危機、すなわち1997年のアジア通貨危機と2007年のグローバル金融危機について、(1)短期外貨債務急増の原因、(2)危機の実体経済への波及経路、(3)政府対応の三つの側面に焦点を絞って比較検討を行った。その結果得られた結論は、1997年と2008年に韓国経済が経験した二つの金融危機が、ともに短期外貨資金の流入の急増により生じた外貨流動性枯渇及び通貨価値の暴落という類似のパターンをたどった外貨流動性危機でありながら、実のところ2008年の金融危機は、97年の危機後になされた制度改革によって先進化した金融システムによって引き起こされたものだということである。
(1)の短期外貨債務急増の原因について、本論文はまず表面的には類似している二つの事象の相違点に着目する。第一に、二つの危機の核心的原因であった短期対外債務の急増をもたらした主体と動機が異なっていたこと。第二に、1997年と異なり、2008年危機においては外貨流動性関連規制が及ばない外資系銀行の国内支店が短期外貨資金の供給源となっていた点である。そこから、筆者は統計などに基づいて分析を加え、1997年の危機後に行われた金融改革が一定の成果を示しながらも、その改革の結果として生じた問題が2008年の危機を生じさせたとの結論を得た。
(2)危機の実体経済への波及経路についても、筆者は1997年と2008年との相違に着目し、諸統計を用いながら、以下のような結論を導く。1997年には韓国の金融部門の対外資産、負債における問題とともに、金融部門と企業部門間の不健全性の問題もあった。同じ財閥系列の金融部門から企業部門へと放漫な融資が行われて大量の不良債権が集積された。それに対し、2008年には企業の資金調達先は多様化していた。2008年はそもそも実体経済が悪くなく、また欧米系金融機関のドル流動性不足が問題の原因であったため、実体経済への直接的影響は限定的となった。だが、世界的な経済不況によって輸出不振となり、それが大きな問題となった。
(3)政府対応についても、本論文は二つの事例間の相違点を指摘する。1997年に実施された外国為替市場への介入が2008年にはなくなり、むしろ政策金利の引き下げと「株式市場安定ファンド」などによる資本市場を通じた流動性供給という初期対応がなされた。また、外貨準備高や通貨スワップの面でも両者の状況は異なっていた。しかし、実際には危機が生じており、外貨流動性を担保するにふさわしい外貨準備額の問題など、いわばマクロ健全性の問題が生じており、97年に個別金融機関の、いわばミクロ健全性が問題となったのとは対照的であった。
以上のように、本論文は韓国の1997年と2008年の、一見類似している外貨流動性危機に着目し、それらが異なる要因、すなわち97年の危機以後の改革によって生じた新たな状況が2008年危機の原因となったことを、統計に基づく実証で明確に示した。選考委員会では、本稿の統計を基礎とした理論的な議論のスタイルを高く評価する一方、問題設定、韓国研究、韓国経済研究への貢献、国際金融研究上の意義について、より明確に語ってもらえば、本稿の価値はいっそう高まったのでないかといった意見などがあったが、これらは本稿の意義を損なうべきものではなく、むしろ今後の課題と言うべきものであった。
これらを踏まえ、選考委員会は、本論文が、経済学、財政学のディシプリンに基づく、韓国を対象とした研究として優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であるとの結論に至った。
受賞の言葉
駐日韓国大使館シニア・リサーチャー 李 素軒
この度は、第17回アジア政経学会優秀論文賞を賜ることとなり、身に余る光栄に存じます。論文の投稿から掲載まで、貴重なご意見・ご指摘を頂いた査読者のみなさま、編集委員会・選考委員会の先生方々に、心から感謝申し上げます。
今回論文賞にご選出いただいた論文は、1997年のアジア通貨危機と2008年のグローバル金融危機の際に韓国で起きた外貨流動性危機を比較分析したものであります。『アジア研究』に掲載されたのは 2019年の1月ですが、本研究の始まりは大学卒業後「経済危機を研究したい」という漠然とした思いから大学院留学を決心した時まで遡ることができると思います。大学院進学以来、歴史的に形を変えながら繰り返される経済危機に対する分析を研究テーマとして、現在に至るまで取り組んできております。巨匠の研究から学び、先生方々・先輩や学友のみなさまのご指導・ご助言に導かれ、研究の方向性を固めていく中で、現代的金融危機を特徴づける金融グローバル化や金融制度を軸として研究を進めるようになりました。
本論文では、そのような観点から、金融グローバル化やそれに伴う金融システムの変容によって、金融危機の様相が如何に変わったのかに着目しました。とりわけ、1970年代以降の世界的な金融グローバル化の波が当時の新興国に与えた影響を考察するため、新興国の資本収支危機の代表例であるアジア通貨危機を分析の出発点としました。アジア通貨危 機の当事国の中でも、1997年危機で抜本的な金融改革が行われ、その約10年後に再び外貨流動性危機を経験することになった韓国の事例は、興味深く、示唆に富んでいると考えられました。論文では、1997年と2008年に韓国で起きた二つの危機は、外貨(ドル)流動性の枯渇や通貨価値の急落といった、いわゆる外貨流動性危機のパターンであった点で表面的には類似していましたが、危機につながった脆弱性を作り出した原因は異なっていた点を示しました。分析からの示唆として、1997年危機後、英米の市場型金融制度を積極的に導入する中で、合理的リスク管理のツールとして脚光を浴びた為替デリバティブ取引から派生した資金フローが、2008年危機の短期外貨債務急増の一因となった点や、2008年危機の際、ドル流動性枯渇による市場の撹乱を収めたのは、1997年に比べてはるかに積み上がっていた規模の外貨準備ではなく、米FRBとの通貨スワップの方であった点を強調しました。
本論文では、韓国のみを対象としましたが、アジア通貨危機を経験したアジア新興国が、その後それぞれどのような金融システムの発展経路を辿り、それによって如何なるレジリエンスの差異が作られているのかについて、今後の課題として取り組みたいと思います。グローバル金融システムの拡大や金融イノベーションが急速に進展していく中で、相互に影響し合いながら進化していく金融危機と金融制度の関係を明らかにすることに、この研究が一助となれば幸いに存じます。
最後に、この研究が論文という形になるまで、研究のイロハからご指導いただいた先生方々、陰に陽にご支援いただいた先輩方々、友人・後輩の皆様、支えてくれた家族に、この場をお借りして心より御礼を申し上げます。今回の受賞を励みに、今後もより一層研究に精進して参りたいと思います。今後と もご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
注記:ウェブサイト掲載にあたり、ニュースレターに掲載されていた受賞の言葉の以下の部分を修正しました(優秀論文賞選考委員会、2021年6月)
原文:「論文の投稿からに掲載まで」 → 修正:「論文の投稿から掲載まで」
2.今村祥子会員「統治と謀略―インドネシア・スハルト体制における「謎の銃殺」事件」
本論文は1982年から85年のインドネシアで生じた、「謎の銃殺(penembakanmisterius)」、すなわちペトルス(Petrus)事件を取り上げた政治史の論文である。今村会員は、この問題に接近するにあたり、民主化以後になされた国家人権委員会による調査報告書や筆者自身による調査者・生存者へのインタビューを通じて事実関係を改めて検討した上で、スハルト体制下において一面で社会的分断を紡ぐような包摂性がみられながらも、他面で暴力が用いられて分断性が一層加速したこと、すなわち「包摂と分断」がなぜ、いかなる論理で併存し、使い分けられたのかを考察している。
本論文ではまず事件の概要を振り返り、当時ペトルスが超法規的な犯罪撲滅運動として社会に認知されたものの、実際にはスハルトの右腕であったアリ・ムルトポの手先として使われてきた「ごろつき集団」が撲滅対象となっていたとの指摘がすでに存在していたと指摘する。そして、筆者はインタビューに基づいて、ペトルスの標的にアリ・ムルトポ支配下の組織が実際に含まれていたこと、またそうした組織だけでなく、「法を犯すような」あるいは「犯しそうな」者だと社会から認定された人々、すなわち「ガリ」が含まれていたことを明らかにする。これは「いずれも国家権力による制裁でありながら、法に則った制裁と、法を無視したむき出しの暴力による原始的制裁とが、国家の必要に応じて共存しうる」ことを示すと筆者はいう。この結果、それまで超法規的な手法によって権力者や政府により標的とされた人々を排除してきたアリ・ムルトポの組織が社会から排除されたが、同時に「ガリ」と認定された人々が社会からの排除とともに進んだのである。
本論文はこうした議論を踏まえ、スハルト体制について以下のような考察を加える。脱イデオロギー原則の下で国民統合を目指すスハルト体制は、パンチャシラという調和原則に基づいた社会の包摂性を追求するために、むしろ謀略、撹乱、宣伝によって国民の中にいる共通の敵としての非国民をあぶりだし、社会の分断を利用していったということである。だからこそ、かつて超法規的な行為を担ったごろつき集団や、社会からの非国民と思われがちな人々をターゲットとし、ペトルスにおいて抹殺したのだった。
以上のように、本論文はペトルスを取り上げながら、スハルト体制を改めて考察し直すことに成功し、かつ結論部でこの事象の後世への影響にも言及しているなど、インドネシアの統治体制や国家と社会との関係性について示唆に富む議論を、よく練られた文章で展開している。選考委員会では、政治権力と「ごろつき」の関係についての、比較の視点を含んだより根源的な問題意識が示された方が多様な本誌の読者に対してはインパクトがあったのではないか、既知の事実と筆者が明らかにした事実との弁別がより明確になされるべきだとの意見があったが、それらは本稿の学術的価値をいささかも損なうものではなく、むしろ今村会員の研究のさらなる発展を期待しての指摘と言うべきものである。
これらの点を踏まえて、選考委員会は、本論文が極めて重要な事例を取り上げた、フィールドワークや文献に基づくインドネシア地域研究として優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であるとの結論に至った。
受賞の言葉
同志社大学 今村 祥子
この度はアジア政経学会優秀論文賞という大変栄誉ある賞をいただきまして、本当に光栄に存じます。選考委員長の川島真先生をはじめ選考委員の先生方、そして論文の投稿の段階からお世話になりました編集委員の先生方に心から御礼申し上げます。また査読をご担当いただいた先生方には、自分では気づけなかった視点から、論文をより良いものに仕上げるヒントをたくさんいただきました。本当にありがとうございました。加えて、受賞論文を執筆するにあたり行いました現地調査につきましては、上廣倫理財団から研究助成をいただきました。心より 御礼申し上げます。
この度の受賞論文は、博士論文の一部として書いたものなのですが、東京大学大学院の藤原帰一先生には、修士課程よりずっとご指導いただき、本当に歩みの遅い私に対して絶えずご助言と励ましをいただいてまいりました。この論文の投稿を勧めてくださったのも藤原先生でした。この場をお借りして御礼を申し上げます。
そして何よりも、論文執筆のための現地調査を助けてくださった多くのインドネシアの方々、お一人お一人を改めて思い出し、感謝の気持ちを噛みしめております。この度の受賞論文は、インドネシアのスハルト体制下で1980年代前半に起きた、いわゆるゴロツキに対する大量虐殺、インドネシアで「謎の銃殺」と呼ばれた事件を取り上げたものです。主な標的となったのは、かつて国家の手先として諜報機関に利用されていたゴロツキたちでしたが、スハルト体制側は、これは犯罪者に対する掃討作戦なんだという名目で、軍が超法規的に街のゴロツキを殺害し、その遺体を敢えて放置してさらしものにするというものでした。この虐殺で犠牲になったのが、ただの犯罪者ではなく、国家に利用されてきたゴロツキ組織であるということは、事件の意味を理解する上で核心となる事実ですが、この点については従来、推測の域を出ておりませんでした。この核心部分に少しでも迫りたいという思いで現地調査を行いました。 ただ、事件に直接関わった人物にお話を聞こうにも、どなたに紹介をお願いすればよいのか手がかりがないまま飛び込んだのが実情で、まずは事件当時、政府の手法を批判していた犯罪学の先生にお話を伺いました。するとこの先生が、偶然にも今回の論文で取り上げたボスを直接ご存知であることが分かりました。すなわち、謎の銃撃事件で三度にわたり狙撃されながら逃げ延びた人物です。お陰で、このボスとのインタビューが実現しました。インタビューして初めて分かったのは、ボスがかつて政府から狙われて逃亡生活を送っていた間、残された家族の面倒を見ていたのが、実は先ほどの犯罪学の先生だったということでした。このためボスは非常に恩義を感じており、「彼の紹介だからインタビューを断れなかった」と言われました。本当に偶然のご縁で、論文の中核となるインタビューが実現したことに、いまだに不思議な思いが消えないと同時に、そういう不思議なご縁に対する感謝の念が自然と湧いてまいります。
この論文で取り上げました「謎の銃殺事件」は、スハルト体制下で起きた数々の国家による暴力のなかでも、独特の酷さがあると私は感じております。虐殺の標的となったのが、いわゆるゴロツキで、しかもかつて国家の手先として利用され、市民に暴力を振るってきた張本人でした。それゆえに、スハルト体制が壊れた後、先ほどのボスのような人物が事件の実態を訴え、スハルト体制の責任を追及しようとしても、これに共感する市民は極めて少ないと言えます。むしろ、「おまえが被害者面をするな」という冷たい反応が大勢を占めます。他方で、インタビューの中でボスが繰り返し言っていたのは、「自分は犯罪者ではない。なぜならすべては国家に命じられてやっていたのだから」ということでした。つまり一方で、犯罪者とは何かを定義する法律があり、他方で、法に縛られない国家が振るう、むき出しの権力がある。この二つが併存していたスハルト体制において、ほぼ誰からも救われない谷底に落ちた、あるいは落ちるべく国家に利用されたのが、この事件の被害者たちであったと感じます。 このような被害者を生み出したスハルト体制の統治について、一つの光を当てることがこの論文の目標でしたが、この度このように栄誉ある賞をいただけたことで、今までの作業が一つの実を結べたのだと実感できて、それが何よりもうれしく存じます。現在、この論文を含む博士論文を執筆しておりまして、まさに法によって縛られない国家の暴力、たとえば1965年9・30事件後の大虐殺、あるいは1984年のイスラム教徒に対するタンジュンプリオク事件、そして体制崩壊の契機となった1998年の暴動、このような国家の暴力を軸に、スハルト体制における国家と社会の関係、そしてそれが民主化によってどこまで変わったのか変わらなかったのかを考察する作業を進めております。現在、世界の各地で権威主義化とも言える現象が見られ、受賞式当日の議論の中にもありましたとおり、コロナ禍での権威主義化も指摘されております。この度の受賞を励みに、このような現代の権威主義の問題にもつながる考察を進めるべく、一歩ずつ進んで参りたいと存じます。改めまして、この度は本当にありがとうございました。
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