第19回アジア政経学会優秀論文賞選考理由
優秀論文賞選考委員会 三重野 文晴
本論文は、フィリピンにおける競争法導入のプロセスに着目して、それがベニグノ・アキノ三世政権下で成立に至る要因を考察することで、アキノ政権の経済ビジョンや経済政策の位相を考察したものである。
論文は、まずアキノ政権が持った経済改革構想の特徴が、インフラ開発が牽引する「包摂的成長」の推進とその基礎となる財政改革の重視にあるとし、その改革構想のもとで、競争問題の現状を「包摂的成長」の阻害要因として捉えていたことを指摘する。その上で、戦後議論されながら不徹底に終始してきた競争法制がこの政権下で成立した背景要因を、政策当事者へのインタビューを含む資料収集による堅実な実証によって明らかにしている。
アキノ政権は、貧困層、中間層が主導する市民社会組織に基盤を持ちつつ、他方で財閥や軍部と比較的友好な関係を維持していた。その基礎環境のもとで、競争法を成立させ得た要因が、(1)「包摂的成長」や中小企業育成を重視する政策ビジョンを基軸に据え、中小企業や市民社会からの提言を活用して法案の詳細をまとめてきたこと、(2)政権のビジョンを共有する議員が強いリーダーシップを発揮して反対勢力との妥協に成功したこと、そして(3)潜在的な反対勢力の財閥が、実は既に海外進出下で国際競争を経験して公正な競争環境の必要性への理解を進めていたこと、などにあるという。さらに、このような政治経済環境を考察することで、アキノ政権の経済政策ビジョンがアロヨ政権への対抗として登場してきたこと、一方で、一見相反する政策が目立つドゥテルテ政権も、実はこの点ではアキノ政権とビジョンを共有しつづけており、フィリピンにおいて経済環境の認識に不可逆的な変化がおきていることを、見いだしている。
本論文は、あくまで政治学としてアキノ政権の特徴を分析する立場に立ちながら、競争法という経済学、法学への広がりをもつ題材を選び、それらの諸要素に目配せをしながら、主題についての一定の結論を導き出すことに成功している。現実を解きほぐすために必要ではあるものの、接近の難しさから避けられることの多いこうした学際的な論点にあえて取り組んだ課題選択と、それによって新しい知見を導き出した成果は、若手研究者の挑戦として高く評価されるべきものであり、優秀論文賞にふさわしい。
ただし、政治学的な分析手法の堅実さに比して、経済面では、中小企業問題の評価や、国際的な価格競争力と独占問題の関係などの経済学的な観点について整理が不足するという指摘や、法学の観点から、競争政策の国際的展開について触れられていないという指摘もあった。これらは挑戦的なアプローチであるがゆえに喚起される課題であろう。今後の研究の展開に期待したい。
受賞の言葉
原 民樹
このたびは、アジア政経学会第19回優秀論文賞をいただくこととなり、たいへん光栄に思います。博士課程に長く在籍しながら、まともな成果を出せなかった私にとって、とても大きな励みになります。選考委員の先生方、査読を担当してくださった先生方、編集委員の先生方に深くお礼申し上げます。
今回の論文は、2015年のフィリピン競争法成立の要因を分析したものですが、私は競争政策に特別な関心があるわけでも、経済政策を研究対象にしているわけでもありません。それにもかかわらず、なぜ競争法に関する論文を書こうと思ったのかを振り返ってみたとき、産業組織論がご専門の越後和典先生が1965年に書かれた『反独占政策論─アメリカの反トラスト政策』という本が導きの糸になったのだと思います。同書には次のような指摘があります。「現代国家の採用する独占対策の型の相違は、その国の階級関係・政治勢力の消長、産業構造の特殊性、大衆の社会心理の特徴、あるいは世界資本主義の動向等の要因によって左右される相対的なものであり、理論的にその是非・優劣を判定しえないものと考える。われわれにとって重要なことは、独占対策の型の優劣ではなく、むしろ右の要因と特定の独占対策の型との関連性を明らかにすることにあるように思われる」。今回の論文は、ここに提起されているすべての要素に論及できたわけではありませんし、フィリピン競争法がどのような「型」に類別できるのかを明確にできたわけでもありません。しかし、私はこの指摘から、一般的に経済学や法学において研究される競争政策を政治学から考えてみることの重要性を教えられると同時に、競争政策がその国の政治経済構造の骨格をなす諸要素に規定されながら形成されるということに気づきました。これは逆に言えば、競争政策を見ることにより、その国の政治経済の輪郭や特徴をつかむことができるということになります。大学院生時代は、狭く限定されたテーマから出発せざるをえませんが、これを社会的に意味のある成果に育てていくには、「特殊」を通じて「普遍」に至る道を探し出さなければなりません。越後先生の研究は、この「特殊」と「普遍」を媒介するひとつの道を示してくれるものであり、競争法を見ることはフィリピンの政治経済の全体像を理解するうえでとても重要だと背中を押してくれたように思います。
私がこの論文のなかでもっとも価値があると考えているのは、フィリピン競争委員会初代委員長のアルセニオ・バリサカン氏にインタビューできたことです。先月、フィリピンの新しい大統領に当選したマルコス・ジュニアは、バリサカン氏を国家経済開発庁長官に任命し、経済政策の舵取りを任せることを発表しました。アキノ政権期の2012〜2016年にもバリサカン氏は同じポストで働いており、本論文であつかった「包摂的成長」路線を提起した中心的人物でもあります。本論文は、「包摂的成長」路線に代表されるアキノ政権の政策枠組みがドゥテルテ政権にも継承されていることを示唆していますが、バリサカン氏の人事に見られるように、今月末に発足するマルコス政権にもこれが継承されることは間違いないと思われます。論文に書いたように、アキノの改革政治の方向性は、アキノ政権期にとどまらない中長期的な射程をもつという考えは、いっそう説得力を増していくと思います。新しいマルコス政権が何に取り組もうとしているのかを考える際にも、この論文を参考にしていただければ幸いです。ありがとうございました。
第18回アジア政経学会優秀論文賞選考理由
優秀論文賞選考委員会 川島 真
アジア政経学会第18回優秀論文賞審査委員会は、第66巻に掲載された論文のうち対象となる7本の論文から以下の二論文を優秀論文として選んだ。
- 永野和茂会員「カッチ・シンド国境問題におけるインド、パキスタンの国際関係―カッチ湿地紛争と国境画定過程の事例分析」
(『アジア研究』第66巻第3号、2020年7月、1-19頁)
- 五十嵐隆幸会員「蔣経国の行政院長期における国防建設(1972–1978)―「攻守一体」戦略に基づく「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢」
(『アジア研究』第66巻第4号、2020年10月、1-19頁)
第17回に引き続き二論文選出となった。この二論文は、対象地域こそ異なるものの、ともに歴史学の論文でディシプリンを同じくしている。このため歴史学に偏重した授賞になるメッセージを避けるために一本に絞るべきではないかという意見も出た。だが、双方ともに課題の設定、史料に基づく実証において優れており、また現代的な意義もあるものであり、優劣つけがたいと審査委員会では判断した。
なお、審査委員会では数量処理を必要とするディシプリンでは方法論習得に時間がかかり、地域研究として優れた問題設定をしたうえで数量的分析をする作業に若手研究者がなかなか到達できていない現実があるため、優秀論文賞の選定においてはディシプリン間の到達度の異同についていかに考慮していくべきかとの課題が提起されたことを付言しておきたい。
1.永野和茂会員「カッチ・シンド国境問題におけるインド、パキスタンの国際関係―カッチ湿地紛争と国境画定過程の事例分析」 本論文は、インド、パキスタン国境の問題の一つであったカッチ・シンド国境問題を取り上げ、その歴史的な解決過程を、1965年のカッチ湿地紛争とその停戦合意、その後の国際仲裁裁判における国境問題決着に焦点を当て、印パ両国だけでなく、両国を取り巻く国際関係にも着目して解明した論文である。具体的には、カッチ・シンド問題が妥結に向かった要因が何であったのかということを、交渉過程、国際的関与、冷戦と南アジア地域政治との交差、国際仲裁裁判の裁決とその受容などを考察対象としている。
従来、印パ間の「対決と対話」の特徴が顕著に見られたこの事例については、対決、または対話のどちらかの側面に注目した論考が多く蓄積されてきたが、昨今、対決と対話の相互関係に注目した研究も現れ始めた。だが、両国が当時置かれていた国際政治情勢や、アメリカのジョンソン政権の南アジア政策、国際仲裁裁判の裁決とその国内的受容の中期的側面については十分に議論されていない。本論文は、まさにこれらの課題に取り組もうとしたものである。
その結果、1965年のカッチ停戦合意の成立がカッチ・シンド国境問題をめぐる歴史の転換点となったことの背景には、1950年代以来の交渉の蓄積、米パ同盟関係が印パ対立の抑制要因となった可能性、印パの軍関係者の間に戦闘拡大抑止という点での共通認識があったこと、そして国際的仲介の他にも、政治指導者の戦略的判断も停戦という決定に強く影響したことが明らかになった。これは法的原則に基づく紛争が政治的解決を目指す交渉へと転換する契機となったが、本論文ではそれを国際政治と南アジア地域の国際政治との交差であり、冷戦構造のうちにありながらも歴史的な地域紛争だったと位置付ける。併せて本論文では、このような政治的解決への方向性は、司法的な場であるはずの国際仲裁裁判でも見られたこと、また裁定を反対論もある国内で受容していくには政治的なイニシアティブも求められたことを指摘した。このように本論文は、カッチ・シンド問題をめぐる歴史的転換に際しては、それぞれのアクターが「政治的な」交渉姿勢を放棄しなかったことの重要性を様々な局面から描き出し、現在においてもなお膠着状態にある印パ関係、ひいては国際紛争解決の要件を示唆する貴重な事例研究となっている。
審査委員会では、本論文が緻密な実証、明確な論旨、学術的な貢献、そして現代的な意味を併せ持つことなどを高く評価し、優秀論文賞に相応しいと判断した。
なお、本論文が用いた史料について、印パという当事者の史料を用いることの可能性についての指摘もあったが、目下この問題に関わる史料へのアクセスが極めて制限されていることが考慮すべきであることに鑑みれば、本論文の評価を下げるものではないと判断された。
受賞の言葉
立教大学大学院 永野 和茂
この度は第18回アジア政経学会優秀論文賞という大変栄誉ある賞を賜り、心から光栄に存じます。選考委員会の先生方をはじめ、論文の投稿段階からお世話になりました編集委員会の先生方に厚く御礼申しあげます。また、2名の査読者からは議論をより精緻にするための貴重なご指摘を頂きました。さらに、お茶の水学術事業会と中西印刷の各ご担当者様には、コロナ禍の厳しい情勢下で出版に向けて校正などの細かな作業をお手伝い頂きました。心から感謝いたします。この度の受賞論文は博士論文の一部として構想されたものです。指導教員である立教大学の竹中千春先生には遅筆な私に辛抱強くお付き合い頂き、また暖かい励ましからはいつも研究のエネルギーを頂いて参りました。改めてこの場をお借りして御礼申し上げます。
論文ではインドとパキスタンのカッチ・シンド国境問題を題材に、1965年のカッチ湿地紛争、そして国際仲裁裁判とその国内的受容という一連の出来事に注目しています。1960年代前半までの南アジアは政治的な境界線の設定について未だ流動期にあり、1947年に英領インドから印パが分離独立して以降、南アジアの政治環境が帝国主義的な国際関係から徐々に冷戦期の国際関係へと変動していく過渡期にありました。例えば、独立後インドに残されたポルトガルやフランスの飛び地領土を獲得したり、パキスタンと中国でカシミールの国境合意(インドはこれを認めていない)が成立したりと、ポスト・コロニアルな国家の国境と領土の「色分け」が変化していく、ある種の「長い独立」とも言える時代背景がありました。1965年カッチ湿地紛争はこうした時代に発生しました。研究資料が必ずしも豊富でなく、また印パ国際関係の研究における注目もそれ程大きくはない現状ですが、論文の中で描写したように、本事例はある意味において印パ両国が第3者を交えて、政治的な妥協点を目指したという重要な出来事でした。領土紛争の研究分野では印パ関係はしばしば「永続的なライバル」と形容されることがあります。しかし、本論文で解明しようとした目標の一つは、そうした「宿命の対決」という見方は一方では当てはまりますが、他方では「政治的な対話」も同時に模索されて来たという点にあります。一連のカッチ問題の分析を通して、そうした単純なパワー・ポリティクス的観点では顧みられないような印パ関係を再確認できたのではないかと思います。
そして、もう一つの目標は国境紛争の緊張緩和のプロセス、つまりそれがどのような条件によって達成されたかを観察することにありました。そこで着目したのが、国際政治と南アジア地域政治がどのように相互に関係したか、同盟の力学や大国の関与がどのように機能したかという点でした。カッチ・シンド国境問題の妥結点は、両国の政治的リーダーや政府の決定だけではなく、イギリス政府による停戦仲介、アメリカ政府の南アジア政策、国連が保障する国際仲裁裁判などのより広義の国際関係、さらには国内における様々な政治力学が関連し合う中で見出された着地点でした。
初めての投稿ということもあり今回の論文には非常に思い入れがあります。本格的に外交資料を確認するため現地に赴いたことも初経験でしたので戸惑うことも多かったのですが、論文執筆という枠を越えて貴重な経験と時間を過ごすことができました。その中で特に印象に残っているのが、公文書館の休館日にロンドン郊外の共同墓地にアジム・フセインの墓参をしたことです。英領インドのラホール(現パキスタンの都市)に生まれた彼は、印パ分離独立後にパキスタン側に残る家族と別れてインド側へと渡り、後にインドの外交官になりました。彼は、分離独立当時の他の多くの離散家族のうちの一人でした。そして1965年、義理の兄弟である駐印パキスタン大使アルシャド・フセインと共にカッチ湿地停戦の署名を行ったのが、アジム・フセインその人でした。共同墓地に埋葬されているとの情報は得ていましたが、広大な敷地のどの区画に墓碑があるのかがわからず(墓地の事務所も休日で閉まっており)、結局一日歩き回った末にようやく発見できました。静かな空気の中で、分離独立やその後に人々が辿った道程、国家間の領土紛争といった大きな問題に思いを馳せた時間でした。論文の執筆に伴う印象深いエピソードとして今でも思い出に残っています。最後になりますが、本論文が形になるまで支えてくださった全ての方々に改めて御礼を申し上げるとともに、今回の受賞を励みに今後も一層研究に精進してまいりたいと思います。この度は、本当にありがとうございました。
2.五十嵐隆幸会員「蔣経国の行政院長期における国防建設(1972–1978)―「攻守一体」戦略に基づく「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢」 本論文は、米中国交正常化の過程でもあり、また蔣介石から蔣経国への権力移行期にも相当する、蔣経国の行政院長期(1972年6月から1978年5月)を対象とし、この時期の国防建設における攻守一体戦略、とりわけ「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢に着目して、中華民国側の視点からそれを再検討しようとしたものである。
従来、台湾政治外交史研究では、来るべき米華断交という危機感の下で政治改革が進められたことは指摘されていたものの、米華相互防衛条約破棄後の中華民国側の準備については多く研究がなされず、たとえ分析されていたにしても、史料上の制約などから、中華民国国軍の改変や近代化などは必ずしも十分に論じられてこなかった。特に、この時期にも名目的であれ「大陸反攻」が掲げられていたことに留意した研究は決して多くない。そこで本論文は、この大陸反攻と実質的に求められた台湾防衛とがいかに認識され、政策化されたかということとともに、蔣経国の国防建設における役割を、主に台湾で公開されている一次史料に基づいて考察した。その結果、第一に、当時たとえ米軍が台湾から撤退しても、人民解放軍の戦力が台湾解放を実現できる水準に達していないと思われていたため、台湾単独防衛への危機感は希薄であったこと、第二に、大陸反攻についてもそれを実現させる意識は乏しく、文化大革命がその好機と映ったものの、むしろその終結が大陸反攻というスローガンの意味を失わせたこと、第三に、行政院長期の蔣経国の国防建設政策は蔣介石による大陸反攻政策を継承しており、そこには限界があったということが明らかとなった。
審査委員会では、本論文が実証において緻密、かつ議論の運びも明快であり、加えて高い学術的意義を持つこと、そして本論文もまた現代的な意味を併せ持つことなどを高く評価し、優秀論文賞に相応しいと判断した。なお、本論文が構想や認識に多く分析を加えているものの、具体的な政策が必ずしも対象とされていないとの意見もあったが、それは当時の中華民国の国防建設それ自体が必ずしも実質性を伴わなかったことの反映だと思われ、本論文の評価を損なうものではないと判断された。
受賞の言葉
防衛大学校 五十嵐 隆幸
アジア政経学会との縁は、2014年10月に防衛大学校で開催された東日本大会に遡ります。当時、修士課程の学生として実行委員会のお手伝いさせていただいた際、いつかはこの場で報告したい、『アジア研究』に投稿するんだ、と決意しました。その目標がかなったばかりでなく、この度はアジア政経学会優秀論文賞という伝統と名誉ある賞を賜ることとなり、身に余る光栄に存じます。まずは、論文の投稿から掲載に至るまで、大変お世話になりました編集委員や査読をされた諸先生方、並びに選考委員の先生方に心から御礼申し上げさせていただきます。
今回の受賞論文を含め、私は台湾の「大陸反攻」について研究を進めてまいりました。大陸反攻の起源については、中華民国政府が中央政府を台北に移転した1949年12月に遡るのは言わずと知れたことでしょう。しかし、その終焉については、これまで明確な答えが示されてはいませんでした。最も大勢を占めていた見解としては、1960年代以降の順調な経済発展が続くなか、「大陸反攻」のスローガンはいつの間にか消え、軍事よりも政治、経済の成果によって「反共」の正しさを顕示するようになったという主張でしょう。そんな無謀なことは最初から不可能だった、彼らもそれを理解していた、米国がそれを許すはずがない、とのご指摘をいただくこともありました。しかしながら、大陸反攻が中国大陸を奪還するために国軍に与えた任務であれば、その最も重要な任務を解除し、今日のような台湾の防衛に専念する軍隊に変えるためには、何らかの政治判断が必要不可欠であると考えました。こうした疑問に基づき、主に台湾で公開されている一次史料を丹念に読み込んだ結果、今から6年ほど前になりますが、1991年に国軍から大陸反攻の任務が解かれたことを明らかにしました。また、その公表と重なるように、李登輝元総統が「当時の国民党には『大陸反攻』を考えている人がいた。彼らを戦わせないために、『国家統一綱領』を制定した」と説明されております。このように台湾の政府が半世紀もの間、「大陸反攻」の旗印を下ろさなかったことが明らかになると、次は、その実態を明らかにすることが研究課題となりました。1960年代までについては、アジア唯一の大元帥という蔣介石の存在も影響しているのでしょう、松田康博会員をはじめとする多くの先生方が大陸反攻を取り上げて研究を進められており、それらを参照しながら研究を進めてまいりました。しかし、1970年代の大陸反攻に触れた研究は極めて少ないのが現状です。そのため、まずは、米華断交という大きな結節の前、病床に臥す蔣介石に代わって蔣経国が実質的に指導者となった1972年以降の約6年間を対象に研究を進めることにしました。その挑戦の場として、2018年11月のアジア政経学会秋季大会にエントリーさせていただきました。同大会では、まさに暗中模索といった拙い報告になってしまいましたが、討論の川嶋真会員と福田円会員から貴重なご意見をいただき、それをもとに大会後も検証を重ねた結果、今回の受賞論文という形で結実することができました。なお、受賞論文では紙幅の制限のため踏み込むことができなかった内容や、コロナウィルスの感染拡大のため公開を停止している「蔣経国日記」の記述を盛り込み、アップデートした成果を近々公表する予定です。
さて、これまでの研究において、台湾は米中関係の文脈に位置付けられ、東アジア情勢の大きな変化の中にその存在が埋もれてしまう傾向がありました。「大陸反攻」に着目した一連の研究において、米中関係が変動していくなかで台湾の政府が、たとえ不可能であっても「中国統一」を果たすための軍事的手段を諦めず、それを頑なに固持し続けてきたことを明らかにしました。今日、米中関係が国際政治における最も大きな関心事になり、さらには「台湾海峡」に注目が集まるなか、米中の狭間で台湾の政府がどのような選択をするのか、地に足を付けて見ていく必要があるのではないでしょうか。
最後になりますが、アジア政経学会の会員でもある前防衛大学校長の国分良成先生、指導教員の佐々木智弘先生には、長い年月をかけてご指導をいただいてきました。また、多くの先生方、研究仲間、スタッフの皆さまのご教授とご支援を得て、この論文を書き上げることができました。今回の受賞にあたり、あらためましてお世話になりました全ての方々に感謝申し上げさせていただきます。今後、この賞の名に恥じぬよう研究に精進していくとともに、微力ながら学会運営にも貢献させていただく所存ですので、引き続きご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。この度は、本当にありがとうございました。
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