■アジア政経学会優秀論文賞
 

第19回アジア政経学会優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 三重野 文晴

本論文は、フィリピンにおける競争法導入のプロセスに着目して、それがベニグノ・アキノ三世政権下で成立に至る要因を考察することで、アキノ政権の経済ビジョンや経済政策の位相を考察したものである。
論文は、まずアキノ政権が持った経済改革構想の特徴が、インフラ開発が牽引する「包摂的成長」の推進とその基礎となる財政改革の重視にあるとし、その改革構想のもとで、競争問題の現状を「包摂的成長」の阻害要因として捉えていたことを指摘する。その上で、戦後議論されながら不徹底に終始してきた競争法制がこの政権下で成立した背景要因を、政策当事者へのインタビューを含む資料収集による堅実な実証によって明らかにしている。
アキノ政権は、貧困層、中間層が主導する市民社会組織に基盤を持ちつつ、他方で財閥や軍部と比較的友好な関係を維持していた。その基礎環境のもとで、競争法を成立させ得た要因が、(1)「包摂的成長」や中小企業育成を重視する政策ビジョンを基軸に据え、中小企業や市民社会からの提言を活用して法案の詳細をまとめてきたこと、(2)政権のビジョンを共有する議員が強いリーダーシップを発揮して反対勢力との妥協に成功したこと、そして(3)潜在的な反対勢力の財閥が、実は既に海外進出下で国際競争を経験して公正な競争環境の必要性への理解を進めていたこと、などにあるという。さらに、このような政治経済環境を考察することで、アキノ政権の経済政策ビジョンがアロヨ政権への対抗として登場してきたこと、一方で、一見相反する政策が目立つドゥテルテ政権も、実はこの点ではアキノ政権とビジョンを共有しつづけており、フィリピンにおいて経済環境の認識に不可逆的な変化がおきていることを、見いだしている。
本論文は、あくまで政治学としてアキノ政権の特徴を分析する立場に立ちながら、競争法という経済学、法学への広がりをもつ題材を選び、それらの諸要素に目配せをしながら、主題についての一定の結論を導き出すことに成功している。現実を解きほぐすために必要ではあるものの、接近の難しさから避けられることの多いこうした学際的な論点にあえて取り組んだ課題選択と、それによって新しい知見を導き出した成果は、若手研究者の挑戦として高く評価されるべきものであり、優秀論文賞にふさわしい。
ただし、政治学的な分析手法の堅実さに比して、経済面では、中小企業問題の評価や、国際的な価格競争力と独占問題の関係などの経済学的な観点について整理が不足するという指摘や、法学の観点から、競争政策の国際的展開について触れられていないという指摘もあった。これらは挑戦的なアプローチであるがゆえに喚起される課題であろう。今後の研究の展開に期待したい。

受賞の言葉

原 民樹

このたびは、アジア政経学会第19回優秀論文賞をいただくこととなり、たいへん光栄に思います。博士課程に長く在籍しながら、まともな成果を出せなかった私にとって、とても大きな励みになります。選考委員の先生方、査読を担当してくださった先生方、編集委員の先生方に深くお礼申し上げます。
今回の論文は、2015年のフィリピン競争法成立の要因を分析したものですが、私は競争政策に特別な関心があるわけでも、経済政策を研究対象にしているわけでもありません。それにもかかわらず、なぜ競争法に関する論文を書こうと思ったのかを振り返ってみたとき、産業組織論がご専門の越後和典先生が1965年に書かれた『反独占政策論─アメリカの反トラスト政策』という本が導きの糸になったのだと思います。同書には次のような指摘があります。「現代国家の採用する独占対策の型の相違は、その国の階級関係・政治勢力の消長、産業構造の特殊性、大衆の社会心理の特徴、あるいは世界資本主義の動向等の要因によって左右される相対的なものであり、理論的にその是非・優劣を判定しえないものと考える。われわれにとって重要なことは、独占対策の型の優劣ではなく、むしろ右の要因と特定の独占対策の型との関連性を明らかにすることにあるように思われる」。今回の論文は、ここに提起されているすべての要素に論及できたわけではありませんし、フィリピン競争法がどのような「型」に類別できるのかを明確にできたわけでもありません。しかし、私はこの指摘から、一般的に経済学や法学において研究される競争政策を政治学から考えてみることの重要性を教えられると同時に、競争政策がその国の政治経済構造の骨格をなす諸要素に規定されながら形成されるということに気づきました。これは逆に言えば、競争政策を見ることにより、その国の政治経済の輪郭や特徴をつかむことができるということになります。大学院生時代は、狭く限定されたテーマから出発せざるをえませんが、これを社会的に意味のある成果に育てていくには、「特殊」を通じて「普遍」に至る道を探し出さなければなりません。越後先生の研究は、この「特殊」と「普遍」を媒介するひとつの道を示してくれるものであり、競争法を見ることはフィリピンの政治経済の全体像を理解するうえでとても重要だと背中を押してくれたように思います。
私がこの論文のなかでもっとも価値があると考えているのは、フィリピン競争委員会初代委員長のアルセニオ・バリサカン氏にインタビューできたことです。先月、フィリピンの新しい大統領に当選したマルコス・ジュニアは、バリサカン氏を国家経済開発庁長官に任命し、経済政策の舵取りを任せることを発表しました。アキノ政権期の2012〜2016年にもバリサカン氏は同じポストで働いており、本論文であつかった「包摂的成長」路線を提起した中心的人物でもあります。本論文は、「包摂的成長」路線に代表されるアキノ政権の政策枠組みがドゥテルテ政権にも継承されていることを示唆していますが、バリサカン氏の人事に見られるように、今月末に発足するマルコス政権にもこれが継承されることは間違いないと思われます。論文に書いたように、アキノの改革政治の方向性は、アキノ政権期にとどまらない中長期的な射程をもつという考えは、いっそう説得力を増していくと思います。新しいマルコス政権が何に取り組もうとしているのかを考える際にも、この論文を参考にしていただければ幸いです。ありがとうございました。

第18回アジア政経学会優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 川島 真

アジア政経学会第18回優秀論文賞審査委員会は、第66巻に掲載された論文のうち対象となる7本の論文から以下の二論文を優秀論文として選んだ。

  • 永野和茂会員「カッチ・シンド国境問題におけるインド、パキスタンの国際関係―カッチ湿地紛争と国境画定過程の事例分析」
    (『アジア研究』第66巻第3号、2020年7月、1-19頁)
  • 五十嵐隆幸会員「蔣経国の行政院長期における国防建設(1972–1978)―「攻守一体」戦略に基づく「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢」
    (『アジア研究』第66巻第4号、2020年10月、1-19頁)

第17回に引き続き二論文選出となった。この二論文は、対象地域こそ異なるものの、ともに歴史学の論文でディシプリンを同じくしている。このため歴史学に偏重した授賞になるメッセージを避けるために一本に絞るべきではないかという意見も出た。だが、双方ともに課題の設定、史料に基づく実証において優れており、また現代的な意義もあるものであり、優劣つけがたいと審査委員会では判断した。
 なお、審査委員会では数量処理を必要とするディシプリンでは方法論習得に時間がかかり、地域研究として優れた問題設定をしたうえで数量的分析をする作業に若手研究者がなかなか到達できていない現実があるため、優秀論文賞の選定においてはディシプリン間の到達度の異同についていかに考慮していくべきかとの課題が提起されたことを付言しておきたい。

 

1.永野和茂会員「カッチ・シンド国境問題におけるインド、パキスタンの国際関係―カッチ湿地紛争と国境画定過程の事例分析」
本論文は、インド、パキスタン国境の問題の一つであったカッチ・シンド国境問題を取り上げ、その歴史的な解決過程を、1965年のカッチ湿地紛争とその停戦合意、その後の国際仲裁裁判における国境問題決着に焦点を当て、印パ両国だけでなく、両国を取り巻く国際関係にも着目して解明した論文である。具体的には、カッチ・シンド問題が妥結に向かった要因が何であったのかということを、交渉過程、国際的関与、冷戦と南アジア地域政治との交差、国際仲裁裁判の裁決とその受容などを考察対象としている。  従来、印パ間の「対決と対話」の特徴が顕著に見られたこの事例については、対決、または対話のどちらかの側面に注目した論考が多く蓄積されてきたが、昨今、対決と対話の相互関係に注目した研究も現れ始めた。だが、両国が当時置かれていた国際政治情勢や、アメリカのジョンソン政権の南アジア政策、国際仲裁裁判の裁決とその国内的受容の中期的側面については十分に議論されていない。本論文は、まさにこれらの課題に取り組もうとしたものである。
 その結果、1965年のカッチ停戦合意の成立がカッチ・シンド国境問題をめぐる歴史の転換点となったことの背景には、1950年代以来の交渉の蓄積、米パ同盟関係が印パ対立の抑制要因となった可能性、印パの軍関係者の間に戦闘拡大抑止という点での共通認識があったこと、そして国際的仲介の他にも、政治指導者の戦略的判断も停戦という決定に強く影響したことが明らかになった。これは法的原則に基づく紛争が政治的解決を目指す交渉へと転換する契機となったが、本論文ではそれを国際政治と南アジア地域の国際政治との交差であり、冷戦構造のうちにありながらも歴史的な地域紛争だったと位置付ける。併せて本論文では、このような政治的解決への方向性は、司法的な場であるはずの国際仲裁裁判でも見られたこと、また裁定を反対論もある国内で受容していくには政治的なイニシアティブも求められたことを指摘した。このように本論文は、カッチ・シンド問題をめぐる歴史的転換に際しては、それぞれのアクターが「政治的な」交渉姿勢を放棄しなかったことの重要性を様々な局面から描き出し、現在においてもなお膠着状態にある印パ関係、ひいては国際紛争解決の要件を示唆する貴重な事例研究となっている。
 審査委員会では、本論文が緻密な実証、明確な論旨、学術的な貢献、そして現代的な意味を併せ持つことなどを高く評価し、優秀論文賞に相応しいと判断した。  なお、本論文が用いた史料について、印パという当事者の史料を用いることの可能性についての指摘もあったが、目下この問題に関わる史料へのアクセスが極めて制限されていることが考慮すべきであることに鑑みれば、本論文の評価を下げるものではないと判断された。

 

受賞の言葉

立教大学大学院 永野 和茂

この度は第18回アジア政経学会優秀論文賞という大変栄誉ある賞を賜り、心から光栄に存じます。選考委員会の先生方をはじめ、論文の投稿段階からお世話になりました編集委員会の先生方に厚く御礼申しあげます。また、2名の査読者からは議論をより精緻にするための貴重なご指摘を頂きました。さらに、お茶の水学術事業会と中西印刷の各ご担当者様には、コロナ禍の厳しい情勢下で出版に向けて校正などの細かな作業をお手伝い頂きました。心から感謝いたします。この度の受賞論文は博士論文の一部として構想されたものです。指導教員である立教大学の竹中千春先生には遅筆な私に辛抱強くお付き合い頂き、また暖かい励ましからはいつも研究のエネルギーを頂いて参りました。改めてこの場をお借りして御礼申し上げます。
論文ではインドとパキスタンのカッチ・シンド国境問題を題材に、1965年のカッチ湿地紛争、そして国際仲裁裁判とその国内的受容という一連の出来事に注目しています。1960年代前半までの南アジアは政治的な境界線の設定について未だ流動期にあり、1947年に英領インドから印パが分離独立して以降、南アジアの政治環境が帝国主義的な国際関係から徐々に冷戦期の国際関係へと変動していく過渡期にありました。例えば、独立後インドに残されたポルトガルやフランスの飛び地領土を獲得したり、パキスタンと中国でカシミールの国境合意(インドはこれを認めていない)が成立したりと、ポスト・コロニアルな国家の国境と領土の「色分け」が変化していく、ある種の「長い独立」とも言える時代背景がありました。1965年カッチ湿地紛争はこうした時代に発生しました。研究資料が必ずしも豊富でなく、また印パ国際関係の研究における注目もそれ程大きくはない現状ですが、論文の中で描写したように、本事例はある意味において印パ両国が第3者を交えて、政治的な妥協点を目指したという重要な出来事でした。領土紛争の研究分野では印パ関係はしばしば「永続的なライバル」と形容されることがあります。しかし、本論文で解明しようとした目標の一つは、そうした「宿命の対決」という見方は一方では当てはまりますが、他方では「政治的な対話」も同時に模索されて来たという点にあります。一連のカッチ問題の分析を通して、そうした単純なパワー・ポリティクス的観点では顧みられないような印パ関係を再確認できたのではないかと思います。
そして、もう一つの目標は国境紛争の緊張緩和のプロセス、つまりそれがどのような条件によって達成されたかを観察することにありました。そこで着目したのが、国際政治と南アジア地域政治がどのように相互に関係したか、同盟の力学や大国の関与がどのように機能したかという点でした。カッチ・シンド国境問題の妥結点は、両国の政治的リーダーや政府の決定だけではなく、イギリス政府による停戦仲介、アメリカ政府の南アジア政策、国連が保障する国際仲裁裁判などのより広義の国際関係、さらには国内における様々な政治力学が関連し合う中で見出された着地点でした。
初めての投稿ということもあり今回の論文には非常に思い入れがあります。本格的に外交資料を確認するため現地に赴いたことも初経験でしたので戸惑うことも多かったのですが、論文執筆という枠を越えて貴重な経験と時間を過ごすことができました。その中で特に印象に残っているのが、公文書館の休館日にロンドン郊外の共同墓地にアジム・フセインの墓参をしたことです。英領インドのラホール(現パキスタンの都市)に生まれた彼は、印パ分離独立後にパキスタン側に残る家族と別れてインド側へと渡り、後にインドの外交官になりました。彼は、分離独立当時の他の多くの離散家族のうちの一人でした。そして1965年、義理の兄弟である駐印パキスタン大使アルシャド・フセインと共にカッチ湿地停戦の署名を行ったのが、アジム・フセインその人でした。共同墓地に埋葬されているとの情報は得ていましたが、広大な敷地のどの区画に墓碑があるのかがわからず(墓地の事務所も休日で閉まっており)、結局一日歩き回った末にようやく発見できました。静かな空気の中で、分離独立やその後に人々が辿った道程、国家間の領土紛争といった大きな問題に思いを馳せた時間でした。論文の執筆に伴う印象深いエピソードとして今でも思い出に残っています。最後になりますが、本論文が形になるまで支えてくださった全ての方々に改めて御礼を申し上げるとともに、今回の受賞を励みに今後も一層研究に精進してまいりたいと思います。この度は、本当にありがとうございました。

2.五十嵐隆幸会員「蔣経国の行政院長期における国防建設(1972–1978)―「攻守一体」戦略に基づく「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢」
本論文は、米中国交正常化の過程でもあり、また蔣介石から蔣経国への権力移行期にも相当する、蔣経国の行政院長期(1972年6月から1978年5月)を対象とし、この時期の国防建設における攻守一体戦略、とりわけ「大陸反攻」と「台湾防衛」の態勢に着目して、中華民国側の視点からそれを再検討しようとしたものである。
従来、台湾政治外交史研究では、来るべき米華断交という危機感の下で政治改革が進められたことは指摘されていたものの、米華相互防衛条約破棄後の中華民国側の準備については多く研究がなされず、たとえ分析されていたにしても、史料上の制約などから、中華民国国軍の改変や近代化などは必ずしも十分に論じられてこなかった。特に、この時期にも名目的であれ「大陸反攻」が掲げられていたことに留意した研究は決して多くない。そこで本論文は、この大陸反攻と実質的に求められた台湾防衛とがいかに認識され、政策化されたかということとともに、蔣経国の国防建設における役割を、主に台湾で公開されている一次史料に基づいて考察した。その結果、第一に、当時たとえ米軍が台湾から撤退しても、人民解放軍の戦力が台湾解放を実現できる水準に達していないと思われていたため、台湾単独防衛への危機感は希薄であったこと、第二に、大陸反攻についてもそれを実現させる意識は乏しく、文化大革命がその好機と映ったものの、むしろその終結が大陸反攻というスローガンの意味を失わせたこと、第三に、行政院長期の蔣経国の国防建設政策は蔣介石による大陸反攻政策を継承しており、そこには限界があったということが明らかとなった。
審査委員会では、本論文が実証において緻密、かつ議論の運びも明快であり、加えて高い学術的意義を持つこと、そして本論文もまた現代的な意味を併せ持つことなどを高く評価し、優秀論文賞に相応しいと判断した。なお、本論文が構想や認識に多く分析を加えているものの、具体的な政策が必ずしも対象とされていないとの意見もあったが、それは当時の中華民国の国防建設それ自体が必ずしも実質性を伴わなかったことの反映だと思われ、本論文の評価を損なうものではないと判断された。

受賞の言葉

防衛大学校 五十嵐 隆幸
アジア政経学会との縁は、2014年10月に防衛大学校で開催された東日本大会に遡ります。当時、修士課程の学生として実行委員会のお手伝いさせていただいた際、いつかはこの場で報告したい、『アジア研究』に投稿するんだ、と決意しました。その目標がかなったばかりでなく、この度はアジア政経学会優秀論文賞という伝統と名誉ある賞を賜ることとなり、身に余る光栄に存じます。まずは、論文の投稿から掲載に至るまで、大変お世話になりました編集委員や査読をされた諸先生方、並びに選考委員の先生方に心から御礼申し上げさせていただきます。
今回の受賞論文を含め、私は台湾の「大陸反攻」について研究を進めてまいりました。大陸反攻の起源については、中華民国政府が中央政府を台北に移転した1949年12月に遡るのは言わずと知れたことでしょう。しかし、その終焉については、これまで明確な答えが示されてはいませんでした。最も大勢を占めていた見解としては、1960年代以降の順調な経済発展が続くなか、「大陸反攻」のスローガンはいつの間にか消え、軍事よりも政治、経済の成果によって「反共」の正しさを顕示するようになったという主張でしょう。そんな無謀なことは最初から不可能だった、彼らもそれを理解していた、米国がそれを許すはずがない、とのご指摘をいただくこともありました。しかしながら、大陸反攻が中国大陸を奪還するために国軍に与えた任務であれば、その最も重要な任務を解除し、今日のような台湾の防衛に専念する軍隊に変えるためには、何らかの政治判断が必要不可欠であると考えました。こうした疑問に基づき、主に台湾で公開されている一次史料を丹念に読み込んだ結果、今から6年ほど前になりますが、1991年に国軍から大陸反攻の任務が解かれたことを明らかにしました。また、その公表と重なるように、李登輝元総統が「当時の国民党には『大陸反攻』を考えている人がいた。彼らを戦わせないために、『国家統一綱領』を制定した」と説明されております。このように台湾の政府が半世紀もの間、「大陸反攻」の旗印を下ろさなかったことが明らかになると、次は、その実態を明らかにすることが研究課題となりました。1960年代までについては、アジア唯一の大元帥という蔣介石の存在も影響しているのでしょう、松田康博会員をはじめとする多くの先生方が大陸反攻を取り上げて研究を進められており、それらを参照しながら研究を進めてまいりました。しかし、1970年代の大陸反攻に触れた研究は極めて少ないのが現状です。そのため、まずは、米華断交という大きな結節の前、病床に臥す蔣介石に代わって蔣経国が実質的に指導者となった1972年以降の約6年間を対象に研究を進めることにしました。その挑戦の場として、2018年11月のアジア政経学会秋季大会にエントリーさせていただきました。同大会では、まさに暗中模索といった拙い報告になってしまいましたが、討論の川嶋真会員と福田円会員から貴重なご意見をいただき、それをもとに大会後も検証を重ねた結果、今回の受賞論文という形で結実することができました。なお、受賞論文では紙幅の制限のため踏み込むことができなかった内容や、コロナウィルスの感染拡大のため公開を停止している「蔣経国日記」の記述を盛り込み、アップデートした成果を近々公表する予定です。 さて、これまでの研究において、台湾は米中関係の文脈に位置付けられ、東アジア情勢の大きな変化の中にその存在が埋もれてしまう傾向がありました。「大陸反攻」に着目した一連の研究において、米中関係が変動していくなかで台湾の政府が、たとえ不可能であっても「中国統一」を果たすための軍事的手段を諦めず、それを頑なに固持し続けてきたことを明らかにしました。今日、米中関係が国際政治における最も大きな関心事になり、さらには「台湾海峡」に注目が集まるなか、米中の狭間で台湾の政府がどのような選択をするのか、地に足を付けて見ていく必要があるのではないでしょうか。
最後になりますが、アジア政経学会の会員でもある前防衛大学校長の国分良成先生、指導教員の佐々木智弘先生には、長い年月をかけてご指導をいただいてきました。また、多くの先生方、研究仲間、スタッフの皆さまのご教授とご支援を得て、この論文を書き上げることができました。今回の受賞にあたり、あらためましてお世話になりました全ての方々に感謝申し上げさせていただきます。今後、この賞の名に恥じぬよう研究に精進していくとともに、微力ながら学会運営にも貢献させていただく所存ですので、引き続きご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。この度は、本当にありがとうございました。


第17回優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 川島真

アジア政経学会第17回優秀論文賞選考委員会は、第65巻に掲載された論文のうち選考対象となる10本の論文から以下の二論文を優秀論文として選んだ。

  • 李素軒会員「資本自由化以降の韓国における二つの外貨流動性危機の比較分析」
    (『アジア研究』65巻1号、2019年1月、p.1-20)
  • 今村祥子会員「統治と謀略―インドネシア・スハルト体制における「謎の銃殺」事件」
    (『アジア研究』65巻3号、2019年7月、p.20-36)

 二論文の受賞となるのは第1回以来だが、今回選考委員会は次のような理由で、最終選考に残った二論文は甲乙つけ難いと判断した。第一に、対象とする地域、またディシプリンが異なり、両者の直接的な比較が困難であること。第二に、この二論文それぞれが日本におけるアジア研究の推奨すべきあり方、そして将来の方向性を示していると考えられることである。
 以下、それぞれの選考理由を記す。

1.李素軒会員「資本自由化以降の韓国における二つの外貨流動性危機の比較分析」
 本論文は、近年の韓国経済が体験した二つの外貨流動性危機、すなわち1997年のアジア通貨危機と2007年のグローバル金融危機について、(1)短期外貨債務急増の原因、(2)危機の実体経済への波及経路、(3)政府対応の三つの側面に焦点を絞って比較検討を行った。その結果得られた結論は、1997年と2008年に韓国経済が経験した二つの金融危機が、ともに短期外貨資金の流入の急増により生じた外貨流動性枯渇及び通貨価値の暴落という類似のパターンをたどった外貨流動性危機でありながら、実のところ2008年の金融危機は、97年の危機後になされた制度改革によって先進化した金融システムによって引き起こされたものだということである。
(1)の短期外貨債務急増の原因について、本論文はまず表面的には類似している二つの事象の相違点に着目する。第一に、二つの危機の核心的原因であった短期対外債務の急増をもたらした主体と動機が異なっていたこと。第二に、1997年と異なり、2008年危機においては外貨流動性関連規制が及ばない外資系銀行の国内支店が短期外貨資金の供給源となっていた点である。そこから、筆者は統計などに基づいて分析を加え、1997年の危機後に行われた金融改革が一定の成果を示しながらも、その改革の結果として生じた問題が2008年の危機を生じさせたとの結論を得た。
(2)危機の実体経済への波及経路についても、筆者は1997年と2008年との相違に着目し、諸統計を用いながら、以下のような結論を導く。1997年には韓国の金融部門の対外資産、負債における問題とともに、金融部門と企業部門間の不健全性の問題もあった。同じ財閥系列の金融部門から企業部門へと放漫な融資が行われて大量の不良債権が集積された。それに対し、2008年には企業の資金調達先は多様化していた。2008年はそもそも実体経済が悪くなく、また欧米系金融機関のドル流動性不足が問題の原因であったため、実体経済への直接的影響は限定的となった。だが、世界的な経済不況によって輸出不振となり、それが大きな問題となった。
(3)政府対応についても、本論文は二つの事例間の相違点を指摘する。1997年に実施された外国為替市場への介入が2008年にはなくなり、むしろ政策金利の引き下げと「株式市場安定ファンド」などによる資本市場を通じた流動性供給という初期対応がなされた。また、外貨準備高や通貨スワップの面でも両者の状況は異なっていた。しかし、実際には危機が生じており、外貨流動性を担保するにふさわしい外貨準備額の問題など、いわばマクロ健全性の問題が生じており、97年に個別金融機関の、いわばミクロ健全性が問題となったのとは対照的であった。
以上のように、本論文は韓国の1997年と2008年の、一見類似している外貨流動性危機に着目し、それらが異なる要因、すなわち97年の危機以後の改革によって生じた新たな状況が2008年危機の原因となったことを、統計に基づく実証で明確に示した。選考委員会では、本稿の統計を基礎とした理論的な議論のスタイルを高く評価する一方、問題設定、韓国研究、韓国経済研究への貢献、国際金融研究上の意義について、より明確に語ってもらえば、本稿の価値はいっそう高まったのでないかといった意見などがあったが、これらは本稿の意義を損なうべきものではなく、むしろ今後の課題と言うべきものであった。
これらを踏まえ、選考委員会は、本論文が、経済学、財政学のディシプリンに基づく、韓国を対象とした研究として優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であるとの結論に至った。

受賞の言葉

駐日韓国大使館シニア・リサーチャー 李 素軒

この度は、第17回アジア政経学会優秀論文賞を賜ることとなり、身に余る光栄に存じます。論文の投稿から掲載まで、貴重なご意見・ご指摘を頂いた査読者のみなさま、編集委員会・選考委員会の先生方々に、心から感謝申し上げます。 今回論文賞にご選出いただいた論文は、1997年のアジア通貨危機と2008年のグローバル金融危機の際に韓国で起きた外貨流動性危機を比較分析したものであります。『アジア研究』に掲載されたのは 2019年の1月ですが、本研究の始まりは大学卒業後「経済危機を研究したい」という漠然とした思いから大学院留学を決心した時まで遡ることができると思います。大学院進学以来、歴史的に形を変えながら繰り返される経済危機に対する分析を研究テーマとして、現在に至るまで取り組んできております。巨匠の研究から学び、先生方々・先輩や学友のみなさまのご指導・ご助言に導かれ、研究の方向性を固めていく中で、現代的金融危機を特徴づける金融グローバル化や金融制度を軸として研究を進めるようになりました。
本論文では、そのような観点から、金融グローバル化やそれに伴う金融システムの変容によって、金融危機の様相が如何に変わったのかに着目しました。とりわけ、1970年代以降の世界的な金融グローバル化の波が当時の新興国に与えた影響を考察するため、新興国の資本収支危機の代表例であるアジア通貨危機を分析の出発点としました。アジア通貨危 機の当事国の中でも、1997年危機で抜本的な金融改革が行われ、その約10年後に再び外貨流動性危機を経験することになった韓国の事例は、興味深く、示唆に富んでいると考えられました。論文では、1997年と2008年に韓国で起きた二つの危機は、外貨(ドル)流動性の枯渇や通貨価値の急落といった、いわゆる外貨流動性危機のパターンであった点で表面的には類似していましたが、危機につながった脆弱性を作り出した原因は異なっていた点を示しました。分析からの示唆として、1997年危機後、英米の市場型金融制度を積極的に導入する中で、合理的リスク管理のツールとして脚光を浴びた為替デリバティブ取引から派生した資金フローが、2008年危機の短期外貨債務急増の一因となった点や、2008年危機の際、ドル流動性枯渇による市場の撹乱を収めたのは、1997年に比べてはるかに積み上がっていた規模の外貨準備ではなく、米FRBとの通貨スワップの方であった点を強調しました。
本論文では、韓国のみを対象としましたが、アジア通貨危機を経験したアジア新興国が、その後それぞれどのような金融システムの発展経路を辿り、それによって如何なるレジリエンスの差異が作られているのかについて、今後の課題として取り組みたいと思います。グローバル金融システムの拡大や金融イノベーションが急速に進展していく中で、相互に影響し合いながら進化していく金融危機と金融制度の関係を明らかにすることに、この研究が一助となれば幸いに存じます。 最後に、この研究が論文という形になるまで、研究のイロハからご指導いただいた先生方々、陰に陽にご支援いただいた先輩方々、友人・後輩の皆様、支えてくれた家族に、この場をお借りして心より御礼を申し上げます。今回の受賞を励みに、今後もより一層研究に精進して参りたいと思います。今後と もご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

注記:ウェブサイト掲載にあたり、ニュースレターに掲載されていた受賞の言葉の以下の部分を修正しました(優秀論文賞選考委員会、2021年6月)
原文:「論文の投稿からに掲載まで」  → 修正:「論文の投稿から掲載まで」

2.今村祥子会員「統治と謀略―インドネシア・スハルト体制における「謎の銃殺」事件」

本論文は1982年から85年のインドネシアで生じた、「謎の銃殺(penembakanmisterius)」、すなわちペトルス(Petrus)事件を取り上げた政治史の論文である。今村会員は、この問題に接近するにあたり、民主化以後になされた国家人権委員会による調査報告書や筆者自身による調査者・生存者へのインタビューを通じて事実関係を改めて検討した上で、スハルト体制下において一面で社会的分断を紡ぐような包摂性がみられながらも、他面で暴力が用いられて分断性が一層加速したこと、すなわち「包摂と分断」がなぜ、いかなる論理で併存し、使い分けられたのかを考察している。
本論文ではまず事件の概要を振り返り、当時ペトルスが超法規的な犯罪撲滅運動として社会に認知されたものの、実際にはスハルトの右腕であったアリ・ムルトポの手先として使われてきた「ごろつき集団」が撲滅対象となっていたとの指摘がすでに存在していたと指摘する。そして、筆者はインタビューに基づいて、ペトルスの標的にアリ・ムルトポ支配下の組織が実際に含まれていたこと、またそうした組織だけでなく、「法を犯すような」あるいは「犯しそうな」者だと社会から認定された人々、すなわち「ガリ」が含まれていたことを明らかにする。これは「いずれも国家権力による制裁でありながら、法に則った制裁と、法を無視したむき出しの暴力による原始的制裁とが、国家の必要に応じて共存しうる」ことを示すと筆者はいう。この結果、それまで超法規的な手法によって権力者や政府により標的とされた人々を排除してきたアリ・ムルトポの組織が社会から排除されたが、同時に「ガリ」と認定された人々が社会からの排除とともに進んだのである。
本論文はこうした議論を踏まえ、スハルト体制について以下のような考察を加える。脱イデオロギー原則の下で国民統合を目指すスハルト体制は、パンチャシラという調和原則に基づいた社会の包摂性を追求するために、むしろ謀略、撹乱、宣伝によって国民の中にいる共通の敵としての非国民をあぶりだし、社会の分断を利用していったということである。だからこそ、かつて超法規的な行為を担ったごろつき集団や、社会からの非国民と思われがちな人々をターゲットとし、ペトルスにおいて抹殺したのだった。 以上のように、本論文はペトルスを取り上げながら、スハルト体制を改めて考察し直すことに成功し、かつ結論部でこの事象の後世への影響にも言及しているなど、インドネシアの統治体制や国家と社会との関係性について示唆に富む議論を、よく練られた文章で展開している。選考委員会では、政治権力と「ごろつき」の関係についての、比較の視点を含んだより根源的な問題意識が示された方が多様な本誌の読者に対してはインパクトがあったのではないか、既知の事実と筆者が明らかにした事実との弁別がより明確になされるべきだとの意見があったが、それらは本稿の学術的価値をいささかも損なうものではなく、むしろ今村会員の研究のさらなる発展を期待しての指摘と言うべきものである。
これらの点を踏まえて、選考委員会は、本論文が極めて重要な事例を取り上げた、フィールドワークや文献に基づくインドネシア地域研究として優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であるとの結論に至った。

受賞の言葉

同志社大学 今村 祥子

この度はアジア政経学会優秀論文賞という大変栄誉ある賞をいただきまして、本当に光栄に存じます。選考委員長の川島真先生をはじめ選考委員の先生方、そして論文の投稿の段階からお世話になりました編集委員の先生方に心から御礼申し上げます。また査読をご担当いただいた先生方には、自分では気づけなかった視点から、論文をより良いものに仕上げるヒントをたくさんいただきました。本当にありがとうございました。加えて、受賞論文を執筆するにあたり行いました現地調査につきましては、上廣倫理財団から研究助成をいただきました。心より 御礼申し上げます。
この度の受賞論文は、博士論文の一部として書いたものなのですが、東京大学大学院の藤原帰一先生には、修士課程よりずっとご指導いただき、本当に歩みの遅い私に対して絶えずご助言と励ましをいただいてまいりました。この論文の投稿を勧めてくださったのも藤原先生でした。この場をお借りして御礼を申し上げます。
そして何よりも、論文執筆のための現地調査を助けてくださった多くのインドネシアの方々、お一人お一人を改めて思い出し、感謝の気持ちを噛みしめております。この度の受賞論文は、インドネシアのスハルト体制下で1980年代前半に起きた、いわゆるゴロツキに対する大量虐殺、インドネシアで「謎の銃殺」と呼ばれた事件を取り上げたものです。主な標的となったのは、かつて国家の手先として諜報機関に利用されていたゴロツキたちでしたが、スハルト体制側は、これは犯罪者に対する掃討作戦なんだという名目で、軍が超法規的に街のゴロツキを殺害し、その遺体を敢えて放置してさらしものにするというものでした。この虐殺で犠牲になったのが、ただの犯罪者ではなく、国家に利用されてきたゴロツキ組織であるということは、事件の意味を理解する上で核心となる事実ですが、この点については従来、推測の域を出ておりませんでした。この核心部分に少しでも迫りたいという思いで現地調査を行いました。 ただ、事件に直接関わった人物にお話を聞こうにも、どなたに紹介をお願いすればよいのか手がかりがないまま飛び込んだのが実情で、まずは事件当時、政府の手法を批判していた犯罪学の先生にお話を伺いました。するとこの先生が、偶然にも今回の論文で取り上げたボスを直接ご存知であることが分かりました。すなわち、謎の銃撃事件で三度にわたり狙撃されながら逃げ延びた人物です。お陰で、このボスとのインタビューが実現しました。インタビューして初めて分かったのは、ボスがかつて政府から狙われて逃亡生活を送っていた間、残された家族の面倒を見ていたのが、実は先ほどの犯罪学の先生だったということでした。このためボスは非常に恩義を感じており、「彼の紹介だからインタビューを断れなかった」と言われました。本当に偶然のご縁で、論文の中核となるインタビューが実現したことに、いまだに不思議な思いが消えないと同時に、そういう不思議なご縁に対する感謝の念が自然と湧いてまいります。
この論文で取り上げました「謎の銃殺事件」は、スハルト体制下で起きた数々の国家による暴力のなかでも、独特の酷さがあると私は感じております。虐殺の標的となったのが、いわゆるゴロツキで、しかもかつて国家の手先として利用され、市民に暴力を振るってきた張本人でした。それゆえに、スハルト体制が壊れた後、先ほどのボスのような人物が事件の実態を訴え、スハルト体制の責任を追及しようとしても、これに共感する市民は極めて少ないと言えます。むしろ、「おまえが被害者面をするな」という冷たい反応が大勢を占めます。他方で、インタビューの中でボスが繰り返し言っていたのは、「自分は犯罪者ではない。なぜならすべては国家に命じられてやっていたのだから」ということでした。つまり一方で、犯罪者とは何かを定義する法律があり、他方で、法に縛られない国家が振るう、むき出しの権力がある。この二つが併存していたスハルト体制において、ほぼ誰からも救われない谷底に落ちた、あるいは落ちるべく国家に利用されたのが、この事件の被害者たちであったと感じます。 このような被害者を生み出したスハルト体制の統治について、一つの光を当てることがこの論文の目標でしたが、この度このように栄誉ある賞をいただけたことで、今までの作業が一つの実を結べたのだと実感できて、それが何よりもうれしく存じます。現在、この論文を含む博士論文を執筆しておりまして、まさに法によって縛られない国家の暴力、たとえば1965年9・30事件後の大虐殺、あるいは1984年のイスラム教徒に対するタンジュンプリオク事件、そして体制崩壊の契機となった1998年の暴動、このような国家の暴力を軸に、スハルト体制における国家と社会の関係、そしてそれが民主化によってどこまで変わったのか変わらなかったのかを考察する作業を進めております。現在、世界の各地で権威主義化とも言える現象が見られ、受賞式当日の議論の中にもありましたとおり、コロナ禍での権威主義化も指摘されております。この度の受賞を励みに、このような現代の権威主義の問題にもつながる考察を進めるべく、一歩ずつ進んで参りたいと存じます。改めまして、この度は本当にありがとうございました。


第16回優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 丸川知雄

本論文は太平洋戦争のさなかに日本の占領下にあったフィリピンのレイテ島で、日本軍によるフィリピン人への暴力に関する言説の影にこれまで隠されてきたフィリピン人同士による暴力について記述している。
フィリピンに侵攻した日本軍は米軍が結成した抗日ゲリラや民衆の自警団の抵抗にあう。だが、抗日ゲリラは中小エリート層によって構成されていたのに対して、自警団は主に貧農層によって構成されており、後者は概して士気が低かった。そのことを日本軍は見抜き、これを逆に対ゲリラ戦に利用しようとした。実際、民衆の自警団は抗日ゲリラ組織から現金支給をあまり受けていなかったため、日本軍は対日協力的な中小エリートを通じて民衆たちを対日協力の側に寝返らせることに成功する。本論文ではレイテ島のいくつかの町に焦点を当て、そこのエリート層の間での親米抗日ゲリラと反米的・対日協力的な人たちの対立、そして後者によって小作人から警察官に引き立てられた人たちのことを書いている。こうした警察官たちが日本軍と行動を共にして対ゲリラ戦を戦い、ゲリラとの嫌疑をかけられた人々に対する拷問や処刑など数々の暴力事件を引き起こした。米軍上陸後、形成が逆転し、今度は対日協力的な民衆に対する暴力が蔓延し、警察官や準軍事組織に組織された人々は投獄された。対日協力したエリートたちも逮捕されて国家反逆罪に問われるが、証人たちとの裏取引によって無罪を勝ち取った。
本論文はフィリピンでの裁判記録、日本軍の残した文書、アメリカの諜報部隊CICの文書など数々の一次資料を駆使しながらも、非専門家の読者にも戦時下のフィリピンの情勢を理解し納得させうるようなわかりやすい筆致で描かれている。フィリピン社会におけるエリートと民衆の関係や、民衆の不満が利用されたことが暴力の広まりにつながったことに説得力を持って明らかにしている。歴史研究、フィリピン地域研究として優れた論文として優秀論文賞を授与するにふさわしいとの結論に至った。

受賞の言葉

福島大学非常勤講師 荒 哲

この度、私の論文に第16回優秀論文賞が授与されました。自分に対してまさかこのような賞が与えられるとは全く予期しておらず、まずは丸川知雄委員長をはじめ、今回、論文の投稿から査読、そして刊行に至るまでお世話になりました担当編集委員や査読をされた諸先生方に感謝申し上げます。
フィリピンでは、日本占領時代がフィリピン史の中で最も暗黒で凄惨な時期として記憶され続けており、そのためか残酷な日本兵が住民たちを苦しめた最悪の時代としてのイメージが民衆間に定着してい ます。しかしながら、こうした日本占領に関する一般フィリピン人が抱く暴力的なイメージの一方で、 20世紀の転換期における対スペイン・フィリピン革命や比米戦争時のアメリカによる暴力の記憶が封殺されており、私はこうした点から民衆の視線に立った日本占領史研究の必要性を感じるようになりました。 今回この論文で、私は、日本占領下のフィリピンで多発した様々な暴力の類型の中で、名も無い貧しい民衆の間にくすぶり続けていた非対称社会是正へ向けたエネルギーによって生まれた暴力の存在が戦後、親米感情が定着したフィリピン社会において歴史上の記憶としてほとんど何も語られていない点を論じました。そして、今回この研究を通して、従来からのフィリピン史記述がこうしたくすぶり続けている民衆感情を史実として認識してこなかった点を強調しました。他の東南アジア地域と比較して、フィリピンにおける日本占領がフィリピン社会にもたらした影響は極めて限定的とされています。しかしながら、エリートがこの国の社会を掌握している一方で、貧しい民衆のくすぶり続けている感情が依然として多種多様な暴力を生み出している点に私たちは注意を向 けなければなりません。日本占領期に高揚した民衆間の暴力こそが、現代フィリピン社会が抱える暴力の根源と言えるかもしれません。今後の研究では、過去の暴力と現代の暴力の連関性を論証し、例えば現在、ドォテルテ大統領が推進している反麻薬戦争に伴う暴力を過去の日本占領時代において組織化された準軍事組織による暴力と比較しながら、現代フィリピン社会の暴力の歴史的省察を行っていきたいと考えております。
最後に、私事になりますが、私は日本国内で一度も大学の常勤教員に就いた経験が無く、科研費申請のための研究者番号もありません。しかしながら、多くの研究仲間の有形無形の支援や励ましを受けながら何とか研究を進めることができました。また、2012年には福武学術文化振興財団、そして2016年には三菱財団より研究助成を受けたことが今回の論文作成へとつながりました。今回、この受賞にあたりお世話になりました全ての方々に心から感謝申し上げます。今後とも、ご指導いただきますよう切にお願い申し上げます。ありがとうございました。


第15回優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 高橋伸夫

フィリピンにおいては、近年、貧困削減が着実に進んでおり、それには農村部における教育水準の高まりが寄与していることが指摘されてきた。同国は1980年代以降、その経済水準からすれば比較的高い初等教育の水準を誇っており、また、途上国としては例外的に男性に比して女性の教育水準が高い特徴をもっている。しかし、最近では、就学率は下がりつつあり、また、いったん就学しても留年や中退などによって持続的な就学が困難となる問題が深刻化し、政策課題として認識されてきている。教育が持続的にならないのは、いかなる要因の組み合わせによるのであろうか。
本論文は、ジェンダーと世代間の教育水準の関係に焦点を当てて、この問題に取り組んだものである。分析に当たっては、教育需要の持続性は個人や世帯の主体的な連続する選択として理解しうるという仮説に立ち、逐次的な意思決定のプロセスを分析するために逐次ロジットモデルが用いられている。用いられるデータは、ミンダナオ島のプキドノン州南部において、1984-85年と2003年の二つの時点で行われた農村家計調査から得られたものである。分析結果として、初等教育終了から中等教育終了まで、女性のほうが次の段階に進める確率が高いこと、初等教育入学後の段階に進めるかどうかは、母親の教育水準が父親のそれよりも重要であること、父親の教育水準は息子に対して、また母親の教育水準は娘に対してそれぞれ大きな影響をもっていることなどが示されている。筆者によれば、もしこのような現象が持続すれば、この地域において現存する「逆」ジェンダー・ギャップは維持・固定されてゆく可能性があるのである。
本論文は、既存研究の周到な吟味のうえに、(1)20年ほど時間差のある世帯調査を丁寧に統合して個人の長期履歴を捉えたデータセットを作成し、このような分析を可能としたこと、(2)各段階の入学と卒業を連続的に捉えた観察によって、既存研究がなしえなかった教育水準の差、入学行動と卒業(中退)行動の違いの総合的な検討を行ったこと、(3)得られた観察結果をミンダナオの産業構造や家族関係の特徴に結びつけた解釈を試みていること、などが高く評価された。ただし、選考委員からは、ミンダナオの社会経済についてのより深い考察、またミンダナオを観察対象とすることの意義や動機についてもう少し踏み込んだ説明がほしいとの指摘、さらには、論文の最大の特徴である逐次ロジットモデルを用いたことではじめて明らかになる知見を、当該分野の既存研究との比較の中でより強調し、それがいかに研究対象地域にとって重要な知見であるのかを、より説得的に示すことができれば、論文の価値を一層高めることができたはずである、との指摘がなされたことを付け加えておく。それにもかかわらず、フィリピン社会の一断面を堅実な実証分析を通じて明らかにしながら、それを社会構造に関する議論や政策のあり方についての示唆へと結びつけようとする「地域研究らしい」試みは高く評価できる。よって選考委員会としては、本論文を、アジア政経学会優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であると認めるものである。

受賞の言葉

アジア経済研究所 海外研究員・在マニラ海外派遣員/フィリピン大学ディリマン校労働産業関係学研究科客員研究員・教育学研究科兼任講師 岡部 正義

アジアの地域研究、社会科学研究分野において歴史ある『アジア研究』誌に拙稿が掲載されただけでも嬉しかったところ、この度は、第15回・アジア政経学会優秀論文賞を賜ることとなり、身に余る光栄に存じます。まずは、高橋伸夫選考委員長をはじめ選考委員会の先生方と、論文の投稿から採択、公開までお世話になりました担当編集委員や査読者の先生方に御礼申し上げます。
今回の受賞対象となった論文も含め、これまで学部時代から一貫して、開発経済学や貧困問題、なかでも人的資本開発や人間開発、教育と開発の分野に関心を持ち、地域としてはフィリピンを中心とする東南アジアに興味を持ち続け、今日に至っております。今回の受賞論文は、フィリピン南部・ミンダナオ島のブキドノン州という農村地域で、米国の国際食糧政策研究所(IFPRI)が現地の研究機関と共同して州南部で収集した通称「ブキドノン・パネル」と呼ばれる家計調査を、IFPRIの許可を得て分析に活用したものです。また、今回の受賞論文は、2010 年12月に提出した自身の修士論文をその後の分析をふまえ、発展的に書き改めた二論文のうちの一つです。大学院進学以来、修士課程時代から現在まで既に十年近い月日をご指導いただいてきており、かつフィリピンへといざなってくださった指導教員の中西徹・東京大学教授に改めて感謝申し上げます。また、IFPRIの関係各位のご協力と、論文の謝辞に記載させていただいた大学院の諸先生方と勤務先の先輩方、そして内外の関係の先生方から多くのご示唆とをいただいて執筆した論文です。遅々とした自身の研究の進展を思うにつけ、忸怩たる思いが強まりますが、今回の研究は決して自分ひとりでは成し得なかったものと痛感しております。
さて、私事になりますが、昨年2017年1月よりフィリピン大学客員研究員というかたちで在外研究に従事する機会を得て、現在はフィリピンに住んでおります。昨年のちょうど初夏のころでしたが、ミンダナオ島の情勢・治安が従前に増して不透明化しました。もともと、ミンダナオ島は、一部地域を除けば、治安の意味で、マニラ首都圏をふくむルソン島やビサヤ地方と比べてもより危ない地域と言われてきましたが、昨年5月に同島中西部にあるマラウィ市が一部のISの過激派勢力に武力占拠されたことを契機にフィリピン軍との間に戦闘が開始されました。多くの物的・人的犠牲があり、政情も不安定化し、7月には「戒厳令」がミンダナオ島に敷かれ、緊張がさらに高まった時期でした。
受賞論文で扱ったデータが取られたのは二回に分かれ、それぞれ1984年、2003年から一年前後をかけて収集されています。直近のデータ収集からみても、すでに15年近く経っています。本来は、フィリピン大学に籍を置く機会を折角得た以上は、最新の状況を調べたいと思っており、赴任前は同ブキドノン・パネルの延長線で自身でも現地調査を進める用意を模索しておりました。特に、別稿で議論する機会を持っておりますが、2010年代に入ってフィリピンでは「K‒12プログラム」という中等教育を中心とした大規模な教育制度改革があり、また今年度からはフィリピン国内の国立・公立大学では授業料無償化政策が進められつつあります。このような制度変化、政策変更を考えると、最近のデータが今後ますます貴重になるはずだという理解でおりましたし、今もそのように認識しています。
ただ、くだんの情勢悪化が顕著となったことにより、別の地域をフィールドとして調査地を選び直す要請に迫られ、現在は、種々の尺度に基づいて検討した結果、南タガログ地方のマリンドゥケ州や西ビサヤ地方のアンティーケ州の農村部において、現在進行形でフィールドワークと一次データの収集、その実証作業にいたる研究を継続しております。今回、学会賞受賞という運びになりましたことを励みとさせていただき、引き続き貧困と開発、教育と社会経済の発展に関する諸問題に能うる限り全霊で取り組み、その後続いていく研究も成果として早く世の中に出せるようにと気持ちを引き締めております。 最後に、現在に至るまで勤務先の同僚・上司、大学・大学院の友人やスタッフの皆さん、そして家族には有形無形に教授と支援を得てまいりました。今回の栄誉は自分だけでは成し得なかったことです。あらためて、お世話になっているすべての方々に心から感謝申し上げます。今後ともご指導いただきますようお願い申し上げます。本当にありがとうございました。


第13回優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 高橋伸夫

中ソ関係史の研究は、冷戦史の一部として、1990年代以降に利用可能となった中国、ロシア、および旧東欧諸国の文書館の所蔵資料を用いて多くの研究が積み重ねられてきた。だが、1950年代初めに生まれた中ソ同盟の基本的な性格をどうみるかについては、見解が分かれている。すなわち、ソ連がこの同盟をもってアジアにおける反米闘争の積極化を図ったとみる見解と、それとは逆に、ソ連がアジアにおける革命については関与を控え、その主導権を中国に委ねたとみる見解である。
本論文は、主として後者の説を検証するため、中華人民共和国成立直後に北京で開催された世界労働組合連盟(世界労連)アジア・オセアニア会議における議論を手掛かりに、中ソ分業体制の実態を解明しようと試みたものである。本論文は中国語とロシア語のアーカイブを利用して、同会議において中国代表が標榜した武装闘争路線が引き起こした波紋、世界労連アジア連絡局を北京に設置することへの中国の躊躇、そして1949年末までには同局が成立したものの、大きな役割を果たす前に有名無実化してしまう過程を明らかにしている。このような事実と経緯からみて、世界労連アジア連絡局は、1958年3月の解散までに、中ソ分業体制のある種の拠点として機能したものの、それをもって分業体制が成立していたとみなすことは難しいと筆者は結論付けている。
本論文は問題設定の大きさ、およびマルチ・アーカイブの手法を用いて手堅い実証が行われていることが高く評価された。議論の運びも無理がなく明快である点も、選考委員のほぼ一致して認めるところであった。ただし、ここで明らかにされた点は、当時の中ソ関係の一断面にすぎないものの、この限定された局面を全体に及ぶかのように解釈しているきらいがあるとの指摘が一部の選考委員から提起されたことを付記しておきたい。それにもかかわらず、大きな問題意識をもって中国語とロシア語の資料に取り組み、「新しい冷戦史」を書こうとする試みは高く評価できる。よって、選考委員会としては、優秀論文賞を授与するにふさわしい論文であると判断するものである。

受賞の言葉

宇都宮大学国際学部 松村 史紀

まさか拙い作品をアジア政経学会優秀論文賞という名誉ある賞に選出していただけるとは想像だにしておりませんでしたが、身に余る光栄に存じます。中ソ関係史の分科会ならびに雑誌特集号の企画に協力して下さった会員各位、とくに討論役を快諾して下さった石井明先生、学会賞担当理事の高橋伸夫先生、選考委員の先生方にまずは厚く御礼申し上げます。
晴れ舞台が不慣れな身にとって、ふさわしい言葉を見つけるだけで一苦労、拙稿の背景は雑誌特集号の「序言」に譲ることとして、ここでは日頃の思いを正直に告白することで喜びの言葉に代えたいと思います。 冷戦が終盤に近づき、湾岸戦争が始まったころ、わたしは中学一年生でした。中ソ関係史研究がそのころ大きく飛躍したことを考えますと、わたしがその勉強を始めるまでに20年近くの開きがあります。ひとが誕生して成人するまでの「20年」、この時間の壁はなかなか乗り越えられるものではありません。子供が大人に教えを請い、それに立ち向かおう とする所作をプロフェッショナルと呼べば、その名を汚すことになるだろうと悩みました。ロシア語を独学で学ぶという不作法によって、その悩みはますます深いものになりました。
ただ、あるとき名優柄本明が職業はひとを狂わせる、自身の職業にはコンプレックスをもつべきで、アマチュア精神こそ大切にすべきだと話しているのを知りました。思えば、故人である永井陽之助教授も軍国主義日本の悲劇は専門家が自らの仕事を過信するところから生まれたと批判していました。ときにプロを自称する研究者であっても、新しい資料や枠組、自身に都合のよい情報に夢中になるあまり、近視眼的で自分勝手な分析に陥らないともかぎりません。ひとによる作為を嫌い、自然思想を愛した老子のことば「手にはいりにくい珍品は、人の行動を誤らせる」(金谷治『老子』講談社)は、プロを自称する研究者であっても、功をあせるときには自戒の句とすべきものなのかもしれません。 プロの一群が通り抜けた道には、もはや目ぼしいものが落ちていないとみるのが通例。ただ、人間社会の営みをまえにしたとき、その複雑さに戸惑い、すべてを理解することが難しいと痛感することでは、プロもアマも選ぶところがないのではないか。「しろうとの思いつきは、普通、専門家のそれにくらべて優るとも劣らぬことが多い」(M. ウェーバー [尾高邦雄訳]『職業としての学問』)のだとすれば、プロの一群が通り抜けた中ソ関係史の研究領域にも、アマチュアが拾い上げられる素材がまだ残されているのかもしれない。まずは自身の未熟さと向き合いながら、今回いただいた賞を糧にいっそう精進したいと思うばかりです。引き続きご指導賜れますよう、よろしくお願い申し上げます。


第12回優秀論文賞選考理由

優秀論文賞選考委員会 大橋英夫

ガーンディーの平和的手段による抗議形態は、しばしば闘争的非暴力と認識されてきた。しかしグジャラーティー語で再読すると、彼のセクシュアリティ認識における問題構成が見落とされていることが判明する。このような問題意識から、本論文は自己認識の変革に必要な私的レベルにおける宗教実践、すなわち「ブラフマチャルヤ」にみられる彼の思想的変遷を手掛かりとして、そのセクシュアリティ認識の変容を取り上げ、それが闘争性、男性性に根差す同時代のナショナリストたちの解放の言説と根本的に異なっており、非暴力ナショナリズムの思想的基盤となっていたことを実証しようとするものである。
本論文は、これまで解明が求められつつも、なかなか着手できなかった問題に真正面から取り組んでおり、ユニークなテーマ設定からも明らかなように、きわめてオリジナリティの高い論文として評価できる。分析の視角に斬新性がみられるだけでなく、一貫した論理構成を描き出しており、また手法としてもグジャラーティー語の一次文献に当たって丁寧に論証がなされるなど、論文としての完成度も高い論考となっている。もっとも、本論のポイントである晩年の実験にいたる変化の分析、また晩年の実験と植民地主義的な二元論の克服との関連の説明について、より緻密な考察が必要であるとの評価が選考過程で指摘されたことも付記しておきたい。
このような指摘にもかかわらず、近年のインド研究において丹念な資料分析に基づく論文が減少傾向にあるなか、本論文には新たな可能性を感じさせるものがあり、本賞の授与は同分野の若手研究者への励みになるものと考える。

 

受賞の言葉

一橋大学大学院 間 永次郎

この度は、歴史あるアジア政経学会から第12回優秀論文賞という望外の栄誉を頂けることを、驚きと共に、大変光栄に思っております。
拙稿は、博士課程の最初の約三年間にインドで収集した一次史料を土台に、2012〜2013年の米国留学中に、コロンビア大学大学院哲学部で、心の哲学とMoral Psychology of Politicsを学ぶ中で執筆したものです。小生の研究課題は、ガーンディーが37歳の時から開始した、「ブラフマチャルヤ」(性的禁欲主義)という身体的・心理的実験が、彼の政治思想が醸成されていく上で、どのような影響を及ぼしていたかを明らかにするというものです。精神分析の方法から影響を受けた一部の研究を除いて、これまで、ガーンディーについて扱った社会科学者の研究では、その政治行動・思想の分析の中で、ガーンディーのセクシュアリティ認識という身体的・心理的問題が関わるこのブラフマチャルヤの実験の意義は、ことごとく見落とされてきました。ガーンディーのセクシュアリティ認識に着目した数少ない研究の一つである精神分析家のE・H・エリクソンによる研究では、ガーンディー思想の中心にある「サッティヤーグラハ」という概念が、「闘争的非暴力」と名付けられ、その特徴が、果敢な自己抑制を行うクシャトリヤ的マスキュリニティとの関係で論じられました。エリクソンの解釈は、ガーンディー研究者の枠を越えて、インド国内外におけるその後のガーンディー理解に甚大な影響を与えました。拙稿では、エリクソンを始めとしたガーンディーのブラフマチャルヤに関する先行研究に見られる史料的・方法論的限界を指摘し、先行研究でほとんど扱われてこなかったグジャラーティー語の一次史料を用いて、ガーンディー晩年(1946-1948)のナショナリズム思想とブラフマチャルヤ思想との関係を、同時代のナショナリストたちの間に流布していた男女のジェンダー枠組みを越えた、ガーンディー独自の超ジェンダー的「自己」概念とでも言えるものに着目しながら、明らかにすることに努めました。
拙稿執筆後も、同時期の思想分析を続けております。その中で、ガーンディーにおいては、公領域における政治的主張、セクシュアリティに関する私的宗教実験、宗教的とも政治的ともつかない断食行動といったものが、すべて同時的に行われており、こうした包括的な「宗教政治」思想とでも言えるものを一つの研究論文で十分に説明するのは、極めて困難で、拙稿が、ガーンディー晩年の宗教政治思想の一側面に光を当てたものにすぎないことを強く自覚しております。現在は、この拙稿の問題点、また、拙稿とほぼ同時期に出版された海外の新しい研究動向も取り入れた、新しい英語論文の執筆に取り組んでおります。
最後になりましたが、これまで小生の研究を、辛抱強く支えて下さった先生方に、深い感謝の意を表したいと思います。今後とも、ご指導・ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。